アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その86 奴隷撤廃運動への賛否

Last Updated on 2025年3月24日 by 成田滋

奴隷撤廃運動中心のウィリアム・ギャリソンら奴隷制撤廃派の指導者たちは、ニューイングランドのエリートとして失いつつある地位を回復するために奴隷制問題を利用した人々として軽蔑されていました。実際は単純だったようで、北部の社会経済的エリートで奴隷制度撤廃論者になった者はほとんどいませんでした。この運動の熱意と宣伝の成功にもかかわらず、多くの北部の人々はこの運動に反発し、自由白人の大多数は撤廃論のメッセージに無関心でありました。

 1830年代、都市部では暴徒が起こり、資産と地位のある者に率いられて、奴隷撤廃派の集会を襲撃します。彼らは、アフリカ系アメリカ人やそのシンパの白人の財産や人々に暴力を振るいました。奴隷撤廃運動の指導者たちは、ニューイングランドで育ったこと、カルヴァン主義的な独善主義、高い社会的地位、比較的優れた教育を受けていたことなど、驚くほど似ていたのです。彼らの運動が世俗的、あるいはエリート主義的ではなかったようです。ですが一般市民はアフリカ系アメリカ人を嫌悪し、制度内での進出に快くは思っていませんでした。

 多くの改革運動が存在したからといって、多数のアメリカ人がそれを支持したわけではありません。撤廃運動は世論調査では不利に働きました。一部の改革は他のものより人気がありましたが、概して、どの主要な運動も大衆の支持を得ることはできませんでした。また、これらの活動に実際に参加した人は少なかったことが判明しています。ブルック・ファーム(Brook Farm)やインディアナ州のニュー・ハーモニー(New Harmony)、ニューヨーク州のオネイダ(Oneida)のようなユートピアを標榜するコロニーでは、多くの賛同者を獲得することはできず、他の多くのグループも賛同はしませんでした。これらの改革運動の重要性は、その規模や成果から生まれるものではありませんでした。

 改革とは、アメリカ生活の不完全さに対する少数の人々の感受性を反映したものです。ある意味で、改革者たちは「良心の声(voices of conscience)」であり、物質主義的な市民に対して、アメリカンドリームがまだ現実になっていないことを思い知らせ、理想と現実の間にある溝を指摘したのでした。

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